machicox’s blog

平穏無事に暮らしたい

誰かの靴を履いてみる

「相手の立場に立つ」という言葉が昔から苦手だ。

 

相手の立場に立つことは、人として大切だし、そのこと自体に疑問を感じてるわけではない。

 

特に社会人になってからはいろんな所で聞くようになった。仕事で大事なこととして、この言葉を上げる人はとても多い。

 

私はずっと、「みんな簡単に『相手の立場に立つ』って言うけど、ほんとにそんなこと出来てると思ってるの?」と感じてたからだ。

 

「相手の立場に立つ」とみんな当たり前のように口にするけれど、実際それをするのはすごく大変で難しくて、私は自分がそれを出来てると全く思わないし、軽々しく「相手の立場に立って…」なんて言えない。

 

すごく大変な作業なはずなのに「相手の立場に立つ」という言葉が耳障りよく軽いものとして使われてるような気がして、もっというと、その言葉自体が「相手に配慮してますよ」という免罪符になってそこで人を思考停止させてる気がして、自分はこの言葉は使いたくないと思ってきた。

 

一言で言うと、「相手の立場に立つ」という言葉が自分の感覚とはマッチしなくて、しっくりこないから、使わないようにしていたのだ。

 

その代わりというわけではないけれど、「想像力」という言葉をよく使ってた。

 

他の人のことを考える想像力がある人は素敵だなと思うし、逆に想像力がない人が嫌いだった。

 

会社の子供がいない先輩(とても優しい。)が、時短勤務で出勤がみんなより1時間遅い私に「毎日一仕事終えてから会社に来てるようなもんだもんね。大変だよね。」と言ってくれたとき、この人はなんて想像力のある人なんだろうと思った。この時から私は、「優しさって想像力なんだ」と思うようになった。

 

逆に、想像力がないというか、自分がマジョリティ側にいることになんの疑いもなくて、それどころかその自覚もなくて、マイノリティ側に立ったこともなくて、いつか立つかもしれない可能性なんてこれっぽっちも考えてなくて、それ故、他の人への想像力がなくて、強者の立場からそれらしいことを言って自分は正しいと思いこんでる人が嫌いだ。

 

でも、「想像力」という言葉を使ってはいるけれど、これも自分の感覚にぴたっとくる言葉というわけではなかった。

 

ところがついに、自分の感覚にぴたっとくる言葉に出会った。それが「誰かの靴を履いてみる」という言葉だ。

 

一昨年?去年?話題になっていって、先月文庫版が発売された「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」という本の中にこの言葉はあった。

 

地元の公立中学に通う著者の息子が、シチズンシップのテストで「エンパシーとはどういこと?」という問題でこう答えたという。

 

誰かの靴を履いてみるためには、まず、他人は自分とは違う靴を履いてることに気づかないといけない。そして、自分の靴を脱いで、相手の靴を履いてみるという面倒くさい作業が必要だ。

 

これは誰にも簡単にできることじゃない。だから、辞書には「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。

 

そう、私は、誰かの感情や経験を分かろうとするための努力ができる人になりたい。そのためには、想像力と、それから、この世界に溢れているたくさんの格差や分断や差別を知ることが必要だ。それは、相手の立場に立つなんていうさらっとしたものではなくて、すごく面倒で難しくて覚悟がいることだ。

 

なのに、自分と相手が違う靴を履いていること、そして自分は歩きやすい靴を履いていることに全然気づいてなくて、そのくせ自分は理解があるとか思っちゃって、偉そうにいろいろ知ったような口で言ってる人がとにかく嫌なのだ。

 

「誰かの靴を履いてみる」

 

これは私のこれからの人生のとても大切なキーワードになる言葉で、この言葉に出会えて本当によかったと思う。